SUNDAY MAINICHI-7

2011.9-10 

ぼくの見たバルカン-その5 ボスニア・ヘルツェゴビナ
(2011年9月24日〜10月11日)

 ボスニア・ヘルツェゴビナ、その首都はサラエヴォ。ここでは紛争が絶えることがなかった。第一次世界大戦はサラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝の後継者フェルディナント大公夫妻をセルビアの青年が暗殺したのが契機となった。第二次世界大戦ではナチス・ドイツがサラエヴォを爆撃した。
  モンテネグロからボスニア・ヘルツェゴビナヘ入ると多くの建物に銃弾の跡が残っている。1992年に始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のそれである。写真に撮ってはみたが、あまりにもひどいのでここに載せなかったものもある。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力はサラエヴォを包囲した。 (地図をみる?)
 こういう背景がありサラエヴォではセルビアの印象はあまりよくないらしい。  1984年にはサラエヴォで冬季オリンピックも開催された。ムスリム、正教徒、カトリック教徒、など異なる宗教が共存していて、今は観光都市として賑わっている。

入国審査を通ったところにある看板。なんでこんなものが残っているの。
Srpskaとはスルプスカ共和国なんですが、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を決めた際、独立に反対したセルビア人はセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の樹立とボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を主張したといういわくつきのもの。
民家
カラスの一種
ほかに撮るものがないのでスズメでも
スティエスカ国立公園内のティエンティシュテにあるホテル
戦争記念館
その中に描かれている壁画(ナチス・ドイツに対するもの)
近くにあるモニュメント
冬に備える
慰霊塔(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のもの)今も花がそえられている。
高度が1000mくらいあるので寒いですが
途中の民家でぶどうをもらう
道端での商売
サラエヴォ市街
イスラム教徒の墓標が無数にある
サラエヴォ市内の建物(銃弾の跡)
市電
カトリック教会のイエスの聖心大聖堂
モスク
バザールでゴザール
皮職人。使っているのはSingerミシンでした
ムスリムの女性でしょうか
このビルの前でフェルディナント大公夫妻が暗殺された
このビルのそばにかかっているラテン橋
世界を自転車で旅しているドイツ人?夫妻。もう一年にもなるんだとか

 

 これでバルカンの旅は終わりですが、次回は特別編としておまけがあります。乞うご期待。

(C) 2011 Shinzo