シンゾーさんからのおたより-その33-下

2007.4 

ちゃり船旅の巻-下

 3月22日宮古から沖縄へ。ここにきたらぜひ行かねばと思っていたのが水族館。巨大なジンベイザメが水槽の中で泳いでいる。そしてセルジュが入れ込んでいた勝連城跡へいかなきゃ。沖縄にはいくつもの城(ぐすく)がある。勝連城はこのうちのひとつで琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利の居城であったところ。阿麻和利は、1458年に国王の重臣で中城に居城した護佐丸を滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めたが大敗して滅びた。これにより首里城を中心とする中山の王権は安定した、と書いてある。バスのガイド嬢によると、沖縄も馬馬虎虎(マーマーフーフー)の気質があるらしい。やっぱしな。中国の影響もあるだろう。それに南国特有の気風かも。前にも書いた。日本人からするとマーマーフーフーは“ええ加減”、よくいえばおおらか。YDO(よー、誰か教えて)。沖縄ではこういう気質を何と言うのか。

ジンベイザメの泳ぐ水族館
中城城
勝連城
あなたにもシーサーを
民謡酒場“ももがみ”にて


 
もうひとつ気になることがある。沖縄でも宮古島でも墓が普段国内で目にするものと違うんですね。台湾と同じ屋根のあるつくりで、大きいほどいいんだとか。興味があったのでインターネットで調べてみました。これは亀甲墓(かめこうばか)という。このお墓は「子宮」の形をしているのですが、人間が死んだ後は生まれてきた母親の「胎内」に戻っていく、という意味があるそうだ。旧暦の3月の吉日、中国の清明の季節には、先祖の霊を慰める目的で、大勢の門中(親戚のこと)が各地から墓に集まって墓前に香をたき、泡盛や重箱を供えて、にぎやかに酒を酌み交わす。これは中国文化そのものですね。ぼくが興味があるのは、九州ではこういうのは見かけなかったから鹿児島と沖縄のどこかで墓の形が変わっているはず。誰か調べてくれませんか。参考にインターネットに載っていた写真をつけます。皆さんもこういう墓にはいりたい?



 3月25日午前7時Marix Lineに乗り那覇を出る。この船は鹿児島に着くまでに近隣の島に寄航しながら25時間の航海。那覇を出るときはたった3人だけかいなと思っていたら、だんだん人が増えて来た。71歳チャリで北海道まで行くという松山の山崎さん、モーターバイクで回っている日野の高野さん。ぼくの船旅はここまでですが、チャリはここからが本番。まず桜島を一周。なぜかここ数日噴煙も上がっていません。

左より高野さん、山崎さん
火山灰で埋まった鳥居
桜島


 3月26日鹿児島から指宿へ。この日は一日中雨だった。一応雨具の用意はしてあるのですが、走っていてもおもしろくない。海から横殴りの雨。おまけに国道226号線は交通量が多い上にせまいと来るから危ないでっせ。距離は50キロと短いのですが遠い感じがする。九州では毎日が温泉でしたが、指宿の砂むし温泉は背中からジワッと暖かくなり、今日の疲れがとれる。

 3月27日指宿から笠沙(南さつま市の西)へ。とにかく起伏の多い道でした。この日70キロ弱。笠沙は以前くじらが座礁したことで話題になったところ。民宿の魚料理がうまい。翌28日は有本さんが拉致されたあの吹上浜を通って川内(せんだい)へ。この吹上浜には22キロにわたってサイクリング専用道路が整備されており、気分は最高。29日阿久根から長島へ、そして船で対岸の天草へ。30日は天草から小浜温泉へ。31日は長崎までの予定でしたが、親友の森本さんがここまで来て迎えてくれました。「イノさん、今日もチャリでいきますか」、と本気とも冗談ともとれる質問あり。もうエエ。ここまできたら拙者悔いはござらん。鹿児島上陸後6日間で約350キロを走行。よくがんばりました。パチパチパチ。チャリで走ってみて九州は山が多いということを実感した。いままで台湾は富士山より高い山がいくつもあり、人口も2,200万でせまい国と思っていた。だが、九州は北部を除き、低いが山また山の連続。長崎はもっとひどい。ここでは自転車に乗る人はあまりいない。電動自転車を駅でレンタルしているほどだ。九州は変わらんといかん、と力んでみても難ですノー。

砂むし温泉
サイクリングロード
指宿より笠沙へ(後ろの山は開聞岳)


 今回なぜ長崎なのか。森本さんもそうだが、前の会社で一緒だった同僚が20年前大勢転勤してきた。そして台湾新幹線で一緒に働いた尾崎さんは肝臓がんで昨年長崎で入院した。はやくお見舞いに行きたいと思っていた。ぼくが着くまでどうか生きながらえていて欲しい。そういう願いをこめてやってきた。だが、台湾を出発する前の3月10日、彼は千の風にのって遠く旅立ったことを宮古島で聞いた。実にいいやつだった。酒を愛し、それ以上にヨットを愛した。最後は世界一周をするんだと熱く語っていた。カメラも二科展に二度も入選するほどの芸術家でもあった。黒縁に入ったヨットの中でのありし日の彼の写真。いい顔だった。何か語りかけているようでもあった。いつまでも彼の魂がまだそこにあるような気がする。安らかに。合掌。

 カミさんはあきれて「あんたは百まで生きる」とのたもうたが、今回のような企画は第一に体力、二にヒマ、そして多少の金が要る。この三拍子揃うというのは長いようで短い人生のうちであまりない。今回は残念ながら、与那国島、西表島には行けなかった。また、狙っていた素晴らしい絵もカメラには収められなかった。でも、ぼくはいろんな人にめぐり会えた。そして元気をもらった。これは古谷さんのいうロマンなのか。船で、チャリで、そして沖縄の民謡酒場で。台湾からチャリで来たというと目が点になっていたが、民宿のおばあちゃんはぼくを自分の息子と重ね合わせ、個人的なことも話してくれた。人間は確実に誰もが必ず死ぬ。せめて生きている間は何かに挑戦し続けたい。冒険家植村直己は“挑戦する対象の大小は問題ではない、そのプロセスが大事だ”と言った。相田みつをの言葉。

あなたにめぐりあえて
ほんとうによかった
ひとりでもいい
こころからそういってくれる
ひとがいれば

 

 2007年4月


P.S. いーい湯ダナ、小浜の海中温泉にて

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