シンゾーさんからのおたより-その6
2003.8

皆さん、ハオジョー ブージエン(好久不見)。ニーハオ マ?
僕はヒョンなことで2003年初春から臺彎(たいわん)
新幹線の仕事に携わることになりました。そして2月よりこちら臺彎に来ています。僕の籍はTaiwan Shinkansen Trackwork Joint Venture(TSTJV)で、新幹線の軌道の設計・建設業務をやっているところです。正確に言うと三菱重工関連の長期臨時社員として出張派遣ということになっています。臺彎での生活も半年になり、この間SARSでは大変心配していただきました。多くの人からメールを頂きましたが、筆不精のせいもありご無沙汰しております。

そうしておりますと、例によってウォーペンヨゥ(我朋友)がホームページに載せる原稿を書け、との催促です。ついついのびのびになっていたのですが、皆さんの熱き期待を裏切らないよう僕の目に映った臺彎、そして初めて海を渡った新幹線について報告してみたいと思います。

友人に鉄っちゃん仲間がいます。いわゆる鉄道ファンというかオタクの集まりを仲間でこう言うそうです。列車の時刻表ひとつとってもウンチクを傾け、使いやすいのとそうでないのがあるといいます。大事にしているのは列車の模型で、それを走らせて悦に入っている子供心を失っていないおじさんといえば怒られるかもしれませんが、さすがに鉄道のことなら相当詳しい。僕がこの仕事に入ったらその鉄っちゃん仲間から、招待を受けることにもなりました。僕が書けるのは鉄道でも軌道のことだけですが、これを読めばあなたも鉄っちゃん仲間に入れますよ。軌間、軌道の幅のことをプロはゲージといいます。この単語を知っているだけでもタダモノではありませんゾ。意外かも知れませんが、これがまた奥が深いんです。サルでも分かる軌道のお話。乞う、ご期待。

新幹線についてはまったくの門外漢の私メが何ゆえに、という質問が当然あるのですが、物事はすべて理路整然とした因果 関係で決まっているのではありません。昔の仲間が何かの縁でたまたま会った時、僕はミスターF得意の卍固めにはまってしまいました。関係者の皆さんもくれぐれもご注意下さいませ。危ないでっせ。僕の担当は客先の臺彎高速鐵道公司(高鐵)へ軌道保守について技術移転をすることです。もちろん僕に出来るわけはありませんので技術指導のJRをはじめ、BWG(ドイツの分岐器メーカ)などの間の調整をして訓練の計画と実施をすることです。横文字を使うとこれがカッコよく聞こえ、コーディネータと言うことになりましょうか。

本来は正社員で対応するのがいままでのやり方でしょうが、今回のような大プロジェクトの立ち上げには人材が不足しています。そのため、調整役などという技術とはかけ離れたジャンルには正社員のエンジニアはまわせない、また変な仕事で大事な人材がつぶれてもこまる。しかるに部外者の僕ならばつぶれようがどうなろうが構わない、いやかつてアラブにいた僕なら多少のことでは決してつぶれない、と踏んだのではないか。

調整役とは言ってもド素人では会話も通 じません。そこで、といってもよりによって1月の真冬の夜間、電車の走らない時を狙って客先に同行してトレーニングを受けろということになりました。 2週間ほど夜と昼が逆のような生活になりましたが、普段は乗れないドクターイエロー(軌道検測車)に同乗させてもらったり、JR東海、西日本の主要な保線所でメンテナンス作業の実際を見学しました。毎日が新しい発見で、これが私にとって大変な勉強になりました。このホームページをお借りしてJR関係者の方々に深く感謝いたします。謝謝。 新幹線は作るよりもメンテナンスの方がはるかに大変なんです。もと国鉄の人がこう言っていました。「花の建設、涙の保線」だと。

臺彎はゾウリムシのような形をした島で面 積は九州より狭く、その上富士山より高い山が峰をつらねています。あの玉山(ニイタカヤマ)は3952mで、ナント3000mを越える山が23峰もある。したがって人が住むところは台北から南に下って高雄に通 じる西海岸しかないが、人口は2200万なので世界一人口密度が高い国といえます。戦前まで日本が統治していた時代、教育や社会インフラに力を入れたので、市民感情も中国や韓国のようなことはなく、非常に親日的です。これはあらゆる意味で助かりますね。旨いかどうかを別 にすると、日式xxというレストランがあちこちにあります。70歳くらい以上の人なら昔小学校で日本語を習っていたので日本語も通 じます。夜の巷は日本語の看板だらけだし、当然日本語が飛び交っている。

進んだ社会なのか、そうでないのか理解に苦しむところですが、サービス産業がやたらに多い。コンビニにマッサージ、KTV(カラオケ)、それにこれらのミックス。そして髪型設計店(理髪店)にお茶屋、コーヒーシップ。YDO(よー、誰か教えて)。何ゆえにマッサージ屋に理髪店と同じBarber Shopという名前がついているんだ。かてて加えて訳が分からなくて多いのが眼鏡屋に労力士(Rolex)の時計屋。この混沌としているのが第一印象であります。後日ビザが切れたので沖縄まで一時避難しましたが、街がきれいなのでちょっと違和感を感じたのは僕だけか。

と、ここまで書いた時やはりBarber Shopが気になる。試しに辞書を引いてみた。今回この仕事をするとき新たに東京書籍のアドバンスト・フェイバリット英和辞典を買ったものだ。いままで30年近く愛用していた英和辞典では字が細かすぎるのと新しい単語が載ってないので、少し抵抗はあったがブチすてた。Barber とは当然ながら、理髪師なのだが、この辞書はさすがアドバンストですゾ。括弧 で囲んだ文化欄にこうある。”店頭の看板柱(Barber Pole)の赤と白(現在では青も加わっている)のストライプは昔、理髪師が外科医を兼ねていた名残;赤は血液、白は包帯を表している。”なるほど。でも何だかおかしい。街のあのBarber Poleというやつは、こちらでは横になっていたり、色も白、赤のものは珍しく、黒、緑、黄色などさまざま。
暇なとき街中のものを調べて”臺彎におけるBarber Shopの研究”にまとめるとギネスブックものでしょうか。

バス、タクシー、電車などの公共料金は日本の半分程度。おまけに冬もあまり寒くはないので食事も屋台でとれば、生活はものすごく安上がりのシステムになっている。というわけでわれわれ日本人の中にも臺彎がいい、という人がいる。花粉症にならないし、寒くないので腰痛がひどくならなくていいんだという。花粉症でお困りの方は臺彎へ緊急避難したらいかが。

折角来たんだからというわけで僕は小姐(シャオジエ)を個人レッスンにつけ、マンツーマンじゃなかったマンツーウーマンで中国語を週三時間勉強しています。あまり復習しないもんだから、覚えるのと忘れるのがあって、容易に口からでてきません。そのうえ会社では日本語ばっかりだから実際に使う場面 は夜しかない。でもぼくのチョンウェン(中文)も、毛布とかいてもわからんから寝るまねをして”寒”という字を書いたり、ポットの絵を描いてここを押すと湯が出るんだと筆談でやっていた2月のころからと比較すると随分進歩したね。ちなみに毛布は絨毯の毯と書くから、毛布では何のことか分からない訳だ。ポットは熱水瓶という。

こちらの歌は日本のオリジナルが多い。日本の曲に中国語の歌詞をつけるんですが、これを歌姫の■麗君(テレサテン)などが歌うと中国語が一層美しく、きれいにきこえますね。余談ですが、これをハオティン(好聴)という。そして聞こえても意味がわからないのを聴不■(チンプドン)、見ても分からないのを看不■(カンプドン)という。チンプンカンプンはこれらが合わさったものでもともと中国語だということがわかった。教養がたかまった?

最近は看板が全部中国語でもあまり違和感がなくなりました。逆に日本語の方が違和感を感じることすらある。トンジン(東京)、ベイハイダゥ(北海道)、ダーバン(大阪)、ヘンピン(横濱)にグァンダウ(廣島)が普通 になってしまった。臺彎では略字を使わないので大陸の変な略字より分かりやすいんですが、でもこれを書くとなると大変ですぞ。小学校で2400字を一生懸命書いて覚えるんだと。日本には漢字はかけなくてもひらがなやカタカナがあるのであまり困らない。それで簡単な漢字も書けないときもある。あなたは果 たしてレモンやバラという漢字が書けますか? 臺彎ではこうはいかぬ。漢字が書けないと即文盲だから。それにしてもだ。太古の昔、よくも遣唐使や遣隋使がこういう国に渡ってきて仏教の教えをひもといて帰ったものだと思う。うまい寿司やてんぷらを食いたい、と書いたら自称田無の007こと、ミスターMが贅沢をいうな、とうってきた。でもな、旨いものはうまいし、旨いものは食べたいですがな。

司馬遼太郎は臺彎は緩やかな規制だと言う。でも悪くいえば何でもありだ。交差点を渡るにも青だからといって安心してはいけない。事実青信号で渡っていたときタクシーとぶつかり事故にあった被害者が社内で出た。バイクにも定員という規制はない。ヘルメットを被っていれば何人乗っていてもいい。また軒先は自分の土地でその先の道路側は公共のものなのだが、この軒先は広く屋根がついているので雨がかからず具合がいい。みんなここを歩いている。逆に道路側は狭く、上からエアコンの水が落ちてくる。しかし個人の所有物となっている軒先は一軒一軒、どういうわけか自己主張があり、入り口のレベルに高低差がある。バリアーフリーの建前からすれば、トンでもないことなのだが、これはナンとかならぬ ものか。

SARSの時、僕はこちらで死者が100人に達したら帰ろうと自分で決めていたんですが、幸いにも66人で止まった。いろいろコメントがきました。シンゾーさんは大丈夫だと思いますね、というのが多いんです。でも何故そういう結論になるのかロジカルに説明してくれないとサッパリ安心できませぬ 。そのなかでMさんのは信憑性がありそうだから、今後の参考にそのまま引用させていただこう。

そちらでのSARSの状況はいかがでしょうか、テレビやラジオで報道されてはいますが、治療  法が確立されていないのではいかんともしがたいのではないでしょうか。そこで、気休め程度のものではありますが朗報を入手しましたのでお知らせしておきます。
先日保菌者と思われる台湾人医師が来日して日本中を震撼させたことはご存知でしょうか。
あれだけ日本中に菌を撒き散らせたのにいまだに発病者はひとりも出てはいません。日本人は抵抗力が強いのです。食生活の中で普段から海産物(海苔)を多く食べている人はSARSにかかりにくいのだそうです。日本人、韓国人は海苔を良く食べますがその中に抗菌材を含んだなにかがあるのだそうです。中国人の中でも上海の人は海苔を比較的食べるので今回も発病者がすくないのだそうです。クロレラも同じだそうです。SARS予防には海苔を食べよう。クロレラを飲もう。これを合い言葉にSARSに勝とう。

安心した? 香港、北京、台湾。ベトナムができてなんで中国でできないのか。僕は思うんだ。だいたい街中がブチばっちい。人がうろうろごったがえしているところで変なもんを料理して、犬の糞が落ちているような道ばたで平気で食べる。スープもビニールにいれてそれをコンクリートの上に置く。食べかすを机の上に出すなって、いうんだ。家からでるな、といっても守らないし、トップも平気でうそをつく、人のことは考えないんだから蔓延するのはあたりまえじゃないの?

インドもばっちいわりにはSARSの話がでないのはおかしいんでは?と隣のインド人にいったら、インドは中国よりももっとばっちい。よって今のインド人はいろんなウイルスにやられて、サバイバルで生き残った遺伝子なので、少々のウイルスには感染しないんだとか。そういうこともあるか、と妙に納得。でも真夏に肺炎はおかしい。本番はこの冬ではないか。

話を新幹線に戻そう。臺彎新幹線は台北と高雄間の345kmを最高速度300km/hで走り、90分で結ぶものです。ちょうど東京ー名古屋間の距離です。車体は最新式のノーズの長い流線型をした700系です。軌道はほとんどがアラブではなくスラブというものです。新幹線の運営には高鐡があたりますが、このために設立された会社で民間の資本で建設・運営されるBOT(Build-Operation-Transfer)方式で開業後35年たって国に渡されることになっています。日本連合は7社(三菱重工、東芝、川重、住友商事、丸紅、三菱商事、三井物産)がこれの建設にあたっています。開業は2006年2月ですが、果 たして間にあうか?

2003年7月17日、記念すべき行事がありました。陳水扁総統も出席してレールの発進式がありました。これから本格的に軌道の敷設工事が始まります。軌道を敷設するにはまず、木製のマクラギで仮軌道を作りその上を資材運搬用の車を通 します。この車両はどこへいってもベンツ製ですが、軌道も道路もどちらでも走るように出来ています。レールはあらかじめ25mの定尺ものを8本溶接して200mにしておく。8月現在は本格的な軌道敷設の準備という段階です。

臺彎新幹線はもともと欧州勢が一旦は受注したようになっていたのです。そのため、欧州の会社は高鐡を契約違反で訴え、現在も国際裁判で係争中です。ところが、1999 年9月21日の未明、臺彎が大震災に見舞われました。中部南投県を震源とするマグニチュード7.7の直下型地震で台中ではビルが倒壊し、死者2000人を越える災害となりました。また、その前年の1998 年6 月3日にはドイツの高速鉄道ICEが脱線事故を起こしており死者98人の犠牲者を出しています。

こういうことがあってか、李登輝総統のツルの一声で急転直下1999 年12月28日、日本の新幹線方式の採用が決まりました。始めて日本の新幹線技術が海を渡ることになった瞬間です。でも仕様書はヨーロッパの設計思想のままなので、設計上色々な問題が発生する原因となりました。新幹線とはいっても完全に日本のコピーではありません。

いろいろスッタモンダの末、肝心の分岐器はドイツBWG社のものを採用することになりました。このBWGになったことで軌道も駅の周辺はドイツのレーダー軌道というものになりました。ここではあまり生々しいことは書けませんが、これがもとでJRの技術支援も限りのあるものになりました。TSTJVは残念ながら今まで新幹線の設計・建設には携わったことはありません。なぜなら制度上鉄建公団が全部取り仕切るようになっているからです。そのためJRや公団からJARTS(海外鉄道技術協力協会)に出向させてそのJARTSをアドバイザーにしてひとつひとつ勉強しながらやっています。たかが軌道、されど軌道”なのです。このヨーロッパの軌道を採用したことがいろいろな問題を生む原因になっているといっても過言ではありません。君の〜行く道は限り〜なく遠い、だのに〜なぜ〜”という歌が聞こえて来そうです。

当初からこのプロジェクトの支援をして頂いたJARTSのK氏には2年間サポートしていただきました。今回残念ながら7月末で帰国されましたが、離台の挨拶文で次のように書いてこられました。

…本音を申し上げれば初期の頃は、皆様にとっては初めての新幹線軌道建設に対し、本当 にこの事業は“軌道に乗る”のだろうかと随分心配したものですが、皆様の「日本を背 負っている」という気概と並はずれた努力を目の当たりにして私自身皆様の技術の習得 の早さに目を丸くしただけでなく、官庁にはない仕事のやり方と熱意をたっぷりと勉強 させていただいたことは、私にとっても大きな財産と自信になりました。今ではこの事業 は皆様の力で必ずうまくいく、という確信を持っております。…

ザイジエン、

2003年8月
つづく

2003.10(c)Shinzo

 

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