シルクロード_キルギス(イシククル湖一周)の旅
(2013.7/30〜8/10)
日程:2013年7月30日〜8月10日
企画:シルクロード雑学大学(代表:長澤法隆さん)
旅人:長澤さん、佐々木さん、猪原
およびJumadyl氏(ソフトドリンクメーカー「ショロー」社長)
通訳:ヌルベクさん
現地サポート:ランドクルーザー(トヨタ)およびトラック(ベンツ)は
「ショロー」社提供
キルギスはシルクロード雑学大学にとって関係の深い国である。シルクロードの旅をつづける中でいままで公に伝わってこなかった元日本兵のことが分かってきたからである。戦後、ソ連に捕虜としてシベリアへ抑留された元日本兵のうち125名が1946年キルギスへ移送され、イシククル湖のほとりのタムガに収容となった。ここでサナトリウム(療養所)の建設を命じられた。収容所内の劣悪な環境の中でなんとか完成にこぎつけた。その間の苦労はいかほどだったか知る由もないが、1948年全員無事に帰国できた。現在、このサナトリウムは国防省の管轄になっているが、一般人に開放されマッサージや泥治療等が行われている。宇宙飛行士ガガーリンもここで治療を受けたという。
長澤代表はキルギスからの帰国直後より精力的に調査を開始した。そして存命中の何人かに接触し当時の状況を確認した。2008年、長澤代表は実際にサナトリウムの建設にあたった宮野氏とともに再度現地を訪れた。国防省をはじめ、当時の捕虜のことを知っている
関係者と歴史的な再会となった。昨年5月にはサナトリウムの一室にキルギス平和センターを設置し、ソメイヨシノの記念植樹をした。これらのことは地元の新聞でも大きく取り上げられ、キルギスでも一躍長澤代表は著名人となった。
2008年以来シルクロード雑学大学は毎年キルギスへの旅をつづけている。そういうなかでたまたま商用で日本滞在中だったJumadyl氏に長澤代表の活動が耳に入り、会いたいとのこと。通訳を交えて言葉を交わすうちにお互い意気投合となったという。ぼくは今回の旅で初めて
Jumadyl氏にお会いすることになったが、気さくで陽気なオモロイ人だった。
旧ソ連邦の一員だったキルギスは1991年独立した。が、今もロシアの影響が強い。キルギス語は国家語だが、公用語はロシア語となっている。英語は全く通じないので中央アジアを旅行するには多少なりともロシア語が必要だ。キルギスの国土は日本の約半分。人口は約500万人。国土の99%は山岳地だが、経済は農業、鉱業(金、レアーアース、ウランなど)。そして最近は観光にも力をいれている。4000mを超える峰が連なる天山山脈が横たわり、標高1600mにあるイシククル湖周辺は夏は別荘地となる。日本人にはなじみのうすい国だが、ヨーロッパからは登山客がきている。
イシククル湖は琵琶湖の約9倍の面積で深いところは水深670m。ソ連時代は外国人が入り込めない幻の湖だった。一帯は乾燥地だが、天山山脈の雪解け水が、時には洪水となって大地を潤す。イシククル湖は"熱い海"という意味で不思議なことに真冬でも凍らないそうだ。そのため、昔はソ連の潜水艦の訓練に、また湖畔にはミサイルの発射設備があった。
キルギスに入るのは楽ではない。直行便がないからである。
モスクワ経由なら首都ビシュケクへ飛べるが、このフライトは小型機だから自転車を持っていくには無理がある。このため、ソウルからアルマトゥイ(カザフスタン)へ入り、車をチャーターして陸路ビシュケク
(250km) へ行くしかない。また、カザフスタンに入るには前もってビザが必要だから、面倒なこった。
今回はイシククル湖周を時計まわりに一周するルートを通ったが、これはキルギスの東は中国ウルムチへ、西はウズベキスタンでタシケント、サマルカンドへ通じるシルクロードの要所である。また、玄奘三蔵は西安を出発し、南方から4000mのペデル峠をこえて、バルスコーン渓谷、イシククル湖、ビシュケクを経て、はるばる天竺へ旅立った。
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キルギス全図 |
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イシククル湖 |
7月30日 成田―ソウル−アルマトゥイ
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アスタナホテル前(アルマトゥイ) |
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アルマトゥイ市内 |
7月31日 アルマトゥイからビシュケクを経てバリクチ へ
8月1日 バリクチからチョルポンアタ へ
ホテル近くの線路は今も使われているらしい。レールには1952の刻印がある。この鉄路はスターリン時代のもの。イシククル湖畔は家畜の放牧場となっている。今日から自転車。チョルポンアタまで約80kmだが、雨のため20kmほど走行し、あとは車。チョルポンアタには古代の岩絵が残っている。イシククル湖周辺は果物の産地。いたるところにあんず、もも、なしが実り、すいか、ふどう、トマトなどを道端で売っている。あんずはロシアではとれないので主要な輸出品目だと聞いた。
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スターリン時代に敷設された鉄路 |
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朝の風景 |
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今日から自転車 |
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湖畔から見た天山山脈 |
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反対方向から北フランス人サイクリスト 6ヶ月前フランスを出てずっと旅をしている。自転車と荷物で重量が60kgもある |
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ユルタの中で昼食 |
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バザール |
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岩絵 |
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この付近の土と藁をこねて日干しレンガを作っている |
8月2日 チョルポンアタからカラコル へ(140kmだが車が主)
今年の夏は雨が多く異常気象だ、と言っていた。ここは1600mの高地だが、雨があがると暑くなる。この日、カラコルは登山客が多かった。町の中心部に日本語で書かれた看板のみやげ物店がある。JICA(国際協力機構)はキルギスの女性の自立を手助けするため、一村一品活動を支援している。ナチュラルハーブ石鹸はその一端だが、日本人ボランティアのおかげでスキンケアの経験、知識や友情を得ることができたと石鹸のパンフレットに書いてある。日本人の女性ボランティアはキルギスに魅せられ、滞在5年目ということだった。
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チョルポンアタのゲストハウスにて |
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道は簡易舗装されているが、保守が悪く走りにくい |
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古墳 |
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同じ道を馬もロバも馬車も車も通るが違和感はない |
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昼食(麺類とナン) |
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ゲストハウスで夕食 |
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雪解けの水 |
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みやげ物店 |
8月3日 カラコルから川に沿って山をのぼりキジル・スー
へ(65km)
キジル・スーは山あいにある温泉地である。宿舎の地下の岩のすきまから丁度41℃くらいの湯が沸き出ている。電気も通ってなくて観光設備としては貧弱だ。道理で食事が出ないわけだが、行った日も大勢の客が来ていた。今晩は社長がボランティアで食事の手作りで我々を接待。夜になると大降りの雨が降り出し、川の水が音を立てて流れている。最初は雷の音かと思ったほどだ。宿の人は「ここ40年こんなことはなかった。ひょっとすると橋が流されるかもしれん」、と通訳がいうのでちょっと気がかり。
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カラコルのゲストハウスにて(めずらしくここは英語が通じたね) |
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車検がないので年代ものが今も使われている |
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バザールにて食材を |
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キジル・スー へ |
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ユルタ(テント)の近くでは家を建てるための日干しレンガ作り |
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完成はこんなものに? |
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風景と昼食 |
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羊飼いの少年 |
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風景 |
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偶然通りかかったロシア人のパーティに招かれた |
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道が冠水しているが車で通過 |
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温泉宿(電気は風力発電で) |
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近くに住んでくいる遊牧民 |
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初めてロバにのる |
8月4日 キジル・スーからタムガ へ(60km)
悪い予感は当たるものだ。昨日冠水していた道の付近は土石流で深くえぐられている。えらいこっちゃ。この日朝飯前だったが、これは簡単にはいかない。道具がないので、そばにころがっている石や木で山をくずすしかない。約一時間の懸命の共同作業。なんとか無事通過できた。おかげで一体感を味わいました。
タムガのゲストハウスにはベルギーの女性2人組とドイツ人カップルが来ていた。ベルギーの女性は村上春樹に相当入れ込んでいましたね。ぼくが言うのは気が引けるが、夕食後ひまだったから、つたないハーモニカで海外初演奏。こちらではカチューシャや百万本のバラがポピュラーらしい。宿の女将は恋のフーガを英語で口ずさんで、「これを吹いてくれ」と言うが。珍しく英語が通じたので聞けば英語の教師だったとか。タムガには2泊。
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